毒親への気付き~3ステップ

どのようにして、両親、取り分け母が毒親であることに気付いてこれたのか?

私にとってそのタイミングは、大きく3ステップで訪れました。

 

1ステップ:学生時代、無理やり家を出る

父母からの精神的圧力や暴力、また次々と降りかかる家庭内不和の中(ブログでは母に焦点を当てていますが、父、そして兄弟を取り囲む環境も当時を振り返れば異常でした。。)、

私は家を出る大学3年生まで、本当に毎日泣いていました。

家庭のせいで毎日泣くことがどれだけ異常なのか、今思えばぞっとしますが、当時は情報がなく、その異常性に気付くことができませんでした。

どこの家庭にもそれなりに問題があり、子どもは親に服従しているのだと、そう、子どもなりの解釈をしていました。

でも、大学に入り様々な価値観の友人に出会うようになり、決して私自身の育ってきた環境が平常なものではない、「平常」とは何なのかは分からないけれど、

少なくとも、両親のことを胸を張って「大好き!」心から「感謝してる!」と言える環境で育つことができる子どもがいるという事実を知り、目から鱗でした。。

 

大学は家から通える距離でしたが、どうしても異常な環境から距離を置き、精神衛生を保ちたい、その一心で、アルバイト費と奨学金を借りることで大学近くで一人暮らしをはじめました。

勿論、当初は毒親からひどい勘当を受けましたが、決して親を頼らないこと、自身の学生生活にとって一人暮らしが重要であることを論理的に説明し(家庭不和から抜け出したいとは勿論言いません)、最終的には両親も納得するかたちで家を出ることができました。

この時期には世間一般で言われているような「親に感謝しなければならない」という義務感もありました。

また、当時毒親を責めきれなかったのは、「母は祖母からの虐待の被害者なのだ」という意識も強くありました。

 

2ステップ:離職期間中、暇になり自分を顧みる

2つ目のステップまでには非常に時間がかかります。

それは就職でさらに親元から遠く離れ、働いて7年目に、初めてきちんとお付き合いした方と結婚をしました。

学生時代、私は恋愛が非常に苦手でした。

交際を申し込まれても、どこかで毒親が監視したり情報を入手したりすることに怯え、告白された相手に急に距離を置いてしまったことも多々あります。

一度だけお付き合いに発展したこともありましたが、やはり毒親の監視が怖くなり、自分から母に交際を伝えたところ、その後が俄然大変に・・・。

お付き合いして間もないにも関わらず、急にセックス・妊娠の話をされて「そんなことになったら人様の目もあるし、お父さんだって許さないからね!」と叱られ、

彼氏との外泊・旅行も一人暮らしのマンションに招くことも全てをいきなり否定されました。

私は、彼氏との交際よりも、毒親から毎日のようにくる連絡(彼氏を家に招き入れていないか等を探られる)に疲れてしまい、同時に彼氏ともうまくいかなくなり、結局別れました。

この時、どんなことがあっても、結婚相手が現れるまでは決して毒親には交際を秘密にしよう、そして、学生時代は親の監視の目が行き届くので、恋愛は無理なんだと思いました。

当時の彼氏への未練は全くありませんが、告白してくれた人の中には、学生時代にお付き合いをすることができたら、精神的に満たされ、自分自身が成長できたかもしれない・・・そう思い、卒業後まで相当後悔した方もいらっしゃいました。

結婚相手に求める条件等はありませんでしたが、漠然と、「幸せな家庭で育った人と結婚できればいいな」そんな気持ちはありました。

結婚相手は会社の同期で、グループ交友などから徐々に親しくなり、3年目からお付き合いを始めました。幸せな家庭で育ったかどうか、確認したわけではありませんでしたが、人への劣等感が無かったり、人のことを悪く思ったり過去を悔んだりしないところ、優しいところが、私にとっては非常に新鮮で(私自身が劣等感と後悔の塊だったので)この人と一緒だと幸せになれそう、と思いました。

夫は結婚前に転職をし、勤務地が少し遠くなりました。一方の私は、7年目の配属先での会社での人間関係に悩み、引っ越しと同時に新卒入社した会社を辞め、再就職をすることにしました。

そして、この離職期間に「自分と対峙する時間」が生まれます。

それまでは毎晩終電・タクシーと多忙な日々を送っていたので、悩む時間も無かったのですが、離職すると当然ながら丸一日が暇な時間となり、次々と後悔や悩みが噴出してくるのです。結婚を機に辞職したものの、通勤しようと思えばいくつか選択肢はあったのです。

この時にぶち当たったのは、

「何故私は嫌な人への批判・執着がやめられないのか。辛抱できなかったのか」ということ。

確かに辞職当時、やや面倒な性格の上司の下で働き、露骨なイジメにあっていたのも確かです。ただ、異動を待つこともできたうえに、周囲はその上司を冷ややかに見て受け流していました。

そこで私自身を振り返ると、母と同様の批判的な思考傾向があり、

また、上司に対しても私自身がモラルハラスメントをしていたのではないかと気付き、非常に恥ずかしくなり、また絶望しました。

 

ぶちあたったもう1つの壁は再就職に向けての準備を進めていく中で「自己PRができない」ことでした。

転職のスペック的には、旧帝大卒・東証一部上場企業で7年間の就労・20代ということで、「既婚」はややネックと感じつつも、採用に全く不利ということではないと思っていました。ただ、本当に自己PRができないのです。7年間の就労で努力したこと・得たものはあるはずなのに、数日頑張っても長所が何も出てこないのです。

 

そして、環境の変化によりもう1つ、過去を呼び覚ます事件が起こります。

引っ越した先の新居マンションではしばらく夫と2人暮らしでしたが、2LDKで広めの間取りでしたから、 周囲は子持ち世帯が多いようでした。

引っ越しをして落ち着いた頃に気付いたのですが・・・お隣の家の若いママが、毎日2~3歳の子どもにヒステリックな罵声を浴びせ、物を投げる音等も聴こえてきます。

離職中の私は日中は家で過ごすことが多かったのですが、その罵声を壁越しに聞いているうちに、自分自身の過去と重なり、毎日息苦しくなりました。

お隣さんなので、何度かすれ違うこともありましたが、子どもは小さくてとっても可愛い子です。なんであんな小さくて弱い存在に対して、毎日罵声を浴びせて暴力をふるえるのか・・・私は毎日ヒステリックな母の怒りの琴線に触れぬよう、怯えて生活をしていました。そして、一度怒り出すと止まらない母に対して、泣きながら「ごめんなさい」「許してください」「もうしないですから」と言っても、絶対に許してもらえません。「なんて目してるんだ」「お前の育て方を失敗した」から始まり、過去の過ちを引っ張りだして「あの時もこうだった・・・」「この時もそうだった・・・」と言って、ビンタが飛び、粘着質に叱られ続けるのです。そして、ビンタが痛くて泣くと、「お母さんの手の方が痛いんだ」とまた、叱られるのです。これは時々のことではなく、≪日常≫でした。

自分の生まれ育った環境は普通ではなかったかもしれない・・・大人になり、客観的に過去の自分を見つめなおし、鬱々としました。

 

私は、自分自身の弱さ、親へふつふつと沸いてくる悶々とする疑問の答えを、次第に書籍に求めるようになりました。

そこでようやく、今の私を形成しているのは、毒親と家庭環境に拠るものだと、気付くことができたのです。

 

そうして日々の中、突然母から電話がかかってきました。

内容は、「どうやら大学生の末妹に彼氏がいることが机上捜索の結果分かり、現在は2人で旅行に行っているらしいが、何度電話・メールをしても繋がらない。今までも外泊を友人ぐるみで隠したりしたことがあった。学費も出してやってるのに旅行なんて信じられない。上2人(私含め)のことは信頼してきたし裏切りはなかったが、末妹のことが分からない」と言っておいおい泣くのです。

その場では必死で励ましました。電話は愚痴と被害妄想で数時間に及び、離職中とはいえすごく疲れました。

ただ、このことを仕事から帰宅した夫に話したところ、

「妹さんも大学生なんだし、彼氏もできるし旅行も行くでしょ~」という呑気な答えが。

目から鱗。確かにその通り・・・。

思えば母は、彼氏と歩いている私の同級生を徹底的に避難しました。私は、その非難の対象になりたくなくて、母の望むような体裁をとっていました。みじめな学生生活を余技なくされた自分自身を振り返り、何故母の幸せのために私が自我を殺してまで、二度と戻って来ない学生生活を送る必要があったのか?「裏切らなかった?」そうさせて苦しんできたこっちの身にもなってくれよ・・・・!という怒りがふつふつと沸いてきました。

そして、母が涙ながらに家庭のことを相談してくることも許せなくなりました。思えば、今まで、子どもにしなくてよい、気分の悪くなりような「大人の話」を、幼き頃より聞かされてきたことにも気付きました。最近母よりかかってきた職場でのストレスの電話も、友人や夫に相談したり話すべきことではないか。

「私はあんたの親じゃない・・・」

幼き頃より様々なストレスの捌け口となり、そして私が成人して自立すると今度は親代わりに求めてくる、なんて勝手な親なんだ!と怒りがこみあげてきました。

 

 

その後私は、自己PRが思いつかぬまま、履歴書づくりに難航しつつ過ごしていましたが、運良く、在職中にお世話になっていた先輩からお誘いがあり、面接らしい面接も受けずに、好条件で再就職をすることができました(つまり、履歴書と自己PRをすっ飛ばせたのです!)。

新しい職場では悩むこともありましたが、前回と同じ失敗は繰り返さまい!と思い、

母の思考傾向が現れそうになれば注意し、自分自身の言動にも注意しました。

勿論、後で失敗したなと思うことも多々ありましたが、働くことは好きですし、成果を認められる場面もあったので、諦めずに頑張って来れました。

 

3ステップ:子どもの誕生

結婚から4年目、子どもを授かりました。

夫は子どもをずっと欲しがっていましたが、私は正直抵抗がありました。

再就職したばかりというのもありましたし、やはり毒親育ちの私がまともな子育てをできるとは思えなかったのです。

妊娠をしてもいないのに、夫の期待が重く、セラビーの専門家の方に涙ながらに相談しに行ったこともありました。

そこで教わったことは「理想的な家庭を知らないあなたには、友人がいる。今は地域に頼れる相談先も用意されている。自分がいいなと思う子育てをしている人がいたら、どんどんその人に聞いて、真似をしなさい」と言われました。

正直、妊娠もしていない人が、子育てのアドバイスを乞う時点で、今思えば十分病的なのですが、この頃は必死でしたし、今でも、この時にお話しが聞けて良かったと非常に感謝しています。

夫は幸せな家庭で育っているので、私が家族を遠ざけることを少し不思議に思っているし、よく世で言われるように、私の「被害妄想が強いのではないか」という考えも、少なからず持っているようです。ただ、優しい夫なので状況は理解していなくても、

「大丈夫!僕が子どもをしっかり育てられるから笑」と言ってくれたことも、子どもに会ってみたいという自信になりました。

 

そして、赤ちゃんが産まれてみて分かったこと・・・。出産はどの方に聞いても、本当にそれぞれにストーリーがあり、「皆がみんな一番大変な出産をしているのだな」と思います。

私自身も、管理入院からの促進剤→緊急帝王切開というかたちで、産後は42度を超える発熱と嘔吐もあったりで、皆と同様「大変な出産」でした。

「自分が親になってみて初めて親の気持ちが分かるんだよ」という言葉があり、私はこの言葉を恐れていました。

ところがどうでしょう。小さくて可愛い赤ちゃんを目の前にして、母と同じように

「お腹を痛めて産んでやった」という気持ちには決してなれませんでした。

また、反面教師として、この子の望む進路に進ませてあげたいという気持ちも高まり、夫ともども、互いの給与の6割以上を子どものために積み立てはじめました。

ただし、これは子どもを産むことを勝手に選択した親としての当然の義務であり、見返りを求めるべきこととは決して思えません。

そして、小さくて可愛い赤ちゃんを目の前にしていると、

なぜ親が、可愛いはずの子どもに対して、

・日々延々と暴言と暴力でなじってきたのだろうか

・身体的な欠点を繰り返しあざ笑ってきたのだろうか

・純な子どもに聞かせなくても良い大人の話を聞かせてきたのであろうか

全く理解できなくなっていきました。

 

両親、特に私の人生の半分以上の期間、毒を盛り続けてきた母とは、距離を置きたいと考えました。

会えば延々と愚痴を聞かされるので疲れる上に、過去のことを思い出すと怒りがわいてきます。そして、可愛い我が子にも余計な事を言い聞かせるのではないかという不安もあるのです。