何故、毒親に子どもを会わせたくないのか
私は毒親である母に、私の子どもを会わせたくありません。先のブログにも書きました通り・・・
【1】会えば家族の愚痴、職場の愚痴、ご近所・同級生のその後等、聞きたくもないネガティブな話を延々と聞かされる
【2】毒親にされた様々な仕打ちがふつふつと思い出される
【3】子どもの前で、言わなくても良いネガティブな話をしそう
そしてこの他にも・・・
母は、他者に非常に批判的で決めつけの強い性格です。
私が未だ大学生だった頃、姉や私の同級生が結婚して妊娠しはじめる時期がありました。短大卒で結婚が早かった人、できちゃった婚をした人、色々な事情があったのだと見聞いていますが、各自の人生なので、他人がとやかく言うことではありません。
それなのに、母は、
「〇〇ちゃんは、できちゃった結婚して、〇〇ちゃんのお母さんは肩身が狭そうに歩いているわよ」
「〇〇ちゃんはおっきなお腹で歩いてたわよ。里帰りかしらね。〇〇ちゃんのお母さんはウキウキしていたけど、孫、孫って、みんなうるさいわ」
「みんな孫ができたら、孫、孫言ってうるさいわ、理解できない」
等、まるで子どもを授かったことを歓迎しないような口調で、さらに母と同世代の方が孫に夢中になる様子を批判しはじめました。
当時私はまだ学生で、恋愛自体がタブーな家庭だったため、妊娠も出産も想像だにできないことでしたが、ただ、もしも家庭を持つことがあっても、妊娠も出産も母とは関わらずに迎えたいなと、漠然と思いました。
そして、私が幸せな結婚を迎え、第1子を妊娠をした時・・・母に妊娠を告げるのが面倒でしょうがありませんでした。勿論、里帰りなんてさらさらする気はありませんでしたが。
妊娠中、母から状況や産後について細かく詮索が入りました。「お腹のおっきな姿にも会ってみたいな」というメールが入り、吐き気がしたことを記憶しています。
妊娠中の再会や産後すぐの訪問については、体調不良を理由に断りました。
それでも予定日が近付くと「まだか、まだか」という連絡が入り、結局最後は管理入院になってしまったのですが、なかなか産まれないことに「その病院大丈夫なの?」という批判までされ、産前の大きなストレスになりました。
幸せな家庭で育った夫の母(義理の母)は、非常に頼れる方で、実は産後数か月は平日毎日来ていただいていたのですが・・・そんなことを母に知られたら逆上されるので、
義母にも「色々とご協力いただいているにも関わらず申し訳ないのですが、母には言わないで欲しいのです」とお願いしていました。
全てを話したことはないですが、母との少ないやり取りの中で義母も何か感じることがあったのか、「わかった!」とだけ言って理解してくれました。
産後毎日、義母と過ごせた時間は、非常に貴重なものでした。子育てについて不安なことなど、実母に聞けないことも色々と相談にのってもらいました。
産後しばらく経ち、さすがに体調不良を理由には母の訪問を断れない時期に、母が訪ねてきました。
聞きたくもない近所の噂話や家族への不満等、夫や子どもの前でも話し出します。
また、子どもに向かって「あなたのお母さんはお腹を痛めてあなたを産んだのよ~」という話をし始めたので、それに対しては「そういうこと言うのやめてよ!産んだのはこっちの勝手なんだから」と制止してしまいました。子どもは言葉がしゃべれない赤ちゃんでしたし、よく聞く台詞ではありますが、母に言われたことを思い出し異常にムカつきました。
産後の再会では特に母に対しての怒りが強まり、精神的にもきつく、私は笑顔にはなれませんでした。
しばらく訪問をしないで欲しい、本気でそう思い、別れ際に母に「産前・産後に昔された色々なことを思い出して毎日苦しい思いをしている。反面教師にして子どもを育てる」と冷たく言い離しました。
すると、翌日から「あなたのトラウマを取り除いてあげたい。ゆっくり話が聞きたい」という連絡が入り、更にウンザリしました。
実は母に対峙したことはこれが初めてではなく、毒親であることに気付いた2ステップ目で、関連書籍を送りつけたことがありました。
その時に母は怒り狂い泣きながら「あんたは何か勘違いしてるんじゃないかい?!育ててやったお母さんの気持ち何にも分かってない」と電話越しに発狂していました。
こんなことがありましたので、母は、フライパンで娘の頭を殴ったことも、人格否定したことも、身体的特徴をバカにしてきたことも、何一つ覚えていないんだな、と既に分かっていたのです。
「今更話すことはない。もう時間は戻ってこないので、連絡しないで」とだけメールをして、それ以来母から「トラウマを取り除いてあげたい」というバカげた提案が入ることは無くなりました。
こんなことがありつつも・・・予測はできていましたが、その後の母の「孫フィーバー」は強まり、要らないものを送ってきたり、「動画を送れ」等の要請も増えてきて、母からの連絡が来る度に憂鬱になりました。
母が散々批判してきた「孫、孫、うるさい」人に、母自体がなっている。だったら最初から立場の違う他人を批判しなければいいのにと、呆れかえりました。
さらに、母は昔よく「パパ、ママって呼ぶのが気持ち悪い。〇〇ちゃんは、そんな風に呼んでて甘えて自立できない大人になる」というような意味不明の決めつけをしていました。
(実際にはうちの姉、お父さん、お母さんと呼んでましたがアラフォーにして自立できていませんが・・・汗。。)
なので余計に、夫と私のことは「パパ、ママ」と呼ばせることも決めていましたが、母が「この子におばあちゃんて呼ばれるの何か嫌だわ~。グランマって教えといて」とメールが着た時には携帯をへし折ろうとさえ思ってしまいましたが・・・
この他にも、昔からことある毎に言っていた母の決めつけが、私を傷つけました。
・「帝王切開はやっぱり良くない」・・・私、意図せず帝王切開になりました。そりゃ経腟分娩の方が産後の回復も早いし、癒着等のリスクもないよね、ということは当事者が一番分かってます
・「愛情もって育てるには子どもは完全母乳であるべき」・・・私は最初の1ヵ月は混合、その後完母へ移行しましたが、母乳が出なかったり、母体の健康状態であったりで、希望があっても完母にできないお母さんもたくさんいると思います。私自身も最初は子どもが保育器に入り入院も長引き、哺入力も弱い赤ちゃんだったので粉ミルクが無いと育てられない状況でした。
産後やっぱりか!という勢いで母乳の出を聞いてきたので、自信を持って「混合で育ててる」言ってやりましたけど・・・
娘が自分の意に反しない育児にしょっぱなからぶち当たり、毒母はどう思ったことか・・・
自論の展開は結構なのですが、それが批判的であればあるほど、 知らず知らずのうちに周囲を傷付けてしまうことがあるんだ・・・
私自身もそのようなことがあったかもしれない、反省するとともに、子どもには極端に特定の人を批判するような思想を植え付けたくはないなと、改めて思うのでした。
ちなみに、母乳を飲ませているところは絶対に見せたくなくて、母の訪問時も別部屋に行きました。
自分が母になっているところ見られることに嫌悪感があるというのと、昔から何度も胸の小ささをバカにされてきたので(それでいて成長を見たがってくる)、嫌だったんですよね。
第二子を妊娠した時、義理両親にはすぐに連絡を入れましたが、両親に連絡することがまた億劫で仕方がなくなりました。妊娠を知らせるとまた様々な詮索が入り面倒になると思ったのです。
結果、二人目の妊娠は妊娠7カ月を過ぎた頃に伝えましたが、具体的な予定日や、産休開始日については言及しませんでした。伝えればまた、様々な詮索が入り、産休に入り日中に電話等がかかってくると、ストレスになると感じたからです。
そしてある日、恐れていたメールは入りました。
内容は「職場の人が、時々娘のお産扱いで休みますという話を聞くと、ちょっと経験してみたい気持ちになる。呼ばれればすぐに行きますので連絡ください」というもの。
虫唾が走りました。。。私は母からメールがくるだけでストレスになっているのに、手伝いに来るだなんて、どの神経で言えるんだと呆れました。
少し日にちをおいて返事をしましたが、「産前産後はイライラしやすいので、連絡や訪問は避けてください」と冷たく返事をしました。予定日や産休開始日への質問もありましたが、それには敢えて触れませんでした。
そして、それから数日間は私、昔の色々なことを思い出して夜中起きてしまったりで、ちょっとした不眠になっています。。。。
いい加減、娘の気持ちを察して欲しい。「それでも母親だから子どもを見捨てない」とでも思っていそうだけど、その気持ち自体が自己満足であることにも、早く気付いてください・・・
世の中、不幸になって欲しい人なんていないけれど、私に見えない知らない遠い場所で勝手に幸せに生きていて欲しい、そう願ってしまうことってありませんか?
私は、その相手が実母なんですよね。。。。
毒親への気付き~3ステップ
どのようにして、両親、取り分け母が毒親であることに気付いてこれたのか?
私にとってそのタイミングは、大きく3ステップで訪れました。
1ステップ:学生時代、無理やり家を出る
父母からの精神的圧力や暴力、また次々と降りかかる家庭内不和の中(ブログでは母に焦点を当てていますが、父、そして兄弟を取り囲む環境も当時を振り返れば異常でした。。)、
私は家を出る大学3年生まで、本当に毎日泣いていました。
家庭のせいで毎日泣くことがどれだけ異常なのか、今思えばぞっとしますが、当時は情報がなく、その異常性に気付くことができませんでした。
どこの家庭にもそれなりに問題があり、子どもは親に服従しているのだと、そう、子どもなりの解釈をしていました。
でも、大学に入り様々な価値観の友人に出会うようになり、決して私自身の育ってきた環境が平常なものではない、「平常」とは何なのかは分からないけれど、
少なくとも、両親のことを胸を張って「大好き!」心から「感謝してる!」と言える環境で育つことができる子どもがいるという事実を知り、目から鱗でした。。
大学は家から通える距離でしたが、どうしても異常な環境から距離を置き、精神衛生を保ちたい、その一心で、アルバイト費と奨学金を借りることで大学近くで一人暮らしをはじめました。
勿論、当初は毒親からひどい勘当を受けましたが、決して親を頼らないこと、自身の学生生活にとって一人暮らしが重要であることを論理的に説明し(家庭不和から抜け出したいとは勿論言いません)、最終的には両親も納得するかたちで家を出ることができました。
この時期には世間一般で言われているような「親に感謝しなければならない」という義務感もありました。
また、当時毒親を責めきれなかったのは、「母は祖母からの虐待の被害者なのだ」という意識も強くありました。
2ステップ:離職期間中、暇になり自分を顧みる
2つ目のステップまでには非常に時間がかかります。
それは就職でさらに親元から遠く離れ、働いて7年目に、初めてきちんとお付き合いした方と結婚をしました。
学生時代、私は恋愛が非常に苦手でした。
交際を申し込まれても、どこかで毒親が監視したり情報を入手したりすることに怯え、告白された相手に急に距離を置いてしまったことも多々あります。
一度だけお付き合いに発展したこともありましたが、やはり毒親の監視が怖くなり、自分から母に交際を伝えたところ、その後が俄然大変に・・・。
お付き合いして間もないにも関わらず、急にセックス・妊娠の話をされて「そんなことになったら人様の目もあるし、お父さんだって許さないからね!」と叱られ、
彼氏との外泊・旅行も一人暮らしのマンションに招くことも全てをいきなり否定されました。
私は、彼氏との交際よりも、毒親から毎日のようにくる連絡(彼氏を家に招き入れていないか等を探られる)に疲れてしまい、同時に彼氏ともうまくいかなくなり、結局別れました。
この時、どんなことがあっても、結婚相手が現れるまでは決して毒親には交際を秘密にしよう、そして、学生時代は親の監視の目が行き届くので、恋愛は無理なんだと思いました。
当時の彼氏への未練は全くありませんが、告白してくれた人の中には、学生時代にお付き合いをすることができたら、精神的に満たされ、自分自身が成長できたかもしれない・・・そう思い、卒業後まで相当後悔した方もいらっしゃいました。
結婚相手に求める条件等はありませんでしたが、漠然と、「幸せな家庭で育った人と結婚できればいいな」そんな気持ちはありました。
結婚相手は会社の同期で、グループ交友などから徐々に親しくなり、3年目からお付き合いを始めました。幸せな家庭で育ったかどうか、確認したわけではありませんでしたが、人への劣等感が無かったり、人のことを悪く思ったり過去を悔んだりしないところ、優しいところが、私にとっては非常に新鮮で(私自身が劣等感と後悔の塊だったので)この人と一緒だと幸せになれそう、と思いました。
夫は結婚前に転職をし、勤務地が少し遠くなりました。一方の私は、7年目の配属先での会社での人間関係に悩み、引っ越しと同時に新卒入社した会社を辞め、再就職をすることにしました。
そして、この離職期間に「自分と対峙する時間」が生まれます。
それまでは毎晩終電・タクシーと多忙な日々を送っていたので、悩む時間も無かったのですが、離職すると当然ながら丸一日が暇な時間となり、次々と後悔や悩みが噴出してくるのです。結婚を機に辞職したものの、通勤しようと思えばいくつか選択肢はあったのです。
この時にぶち当たったのは、
「何故私は嫌な人への批判・執着がやめられないのか。辛抱できなかったのか」ということ。
確かに辞職当時、やや面倒な性格の上司の下で働き、露骨なイジメにあっていたのも確かです。ただ、異動を待つこともできたうえに、周囲はその上司を冷ややかに見て受け流していました。
そこで私自身を振り返ると、母と同様の批判的な思考傾向があり、
また、上司に対しても私自身がモラルハラスメントをしていたのではないかと気付き、非常に恥ずかしくなり、また絶望しました。
ぶちあたったもう1つの壁は再就職に向けての準備を進めていく中で「自己PRができない」ことでした。
転職のスペック的には、旧帝大卒・東証一部上場企業で7年間の就労・20代ということで、「既婚」はややネックと感じつつも、採用に全く不利ということではないと思っていました。ただ、本当に自己PRができないのです。7年間の就労で努力したこと・得たものはあるはずなのに、数日頑張っても長所が何も出てこないのです。
そして、環境の変化によりもう1つ、過去を呼び覚ます事件が起こります。
引っ越した先の新居マンションではしばらく夫と2人暮らしでしたが、2LDKで広めの間取りでしたから、 周囲は子持ち世帯が多いようでした。
引っ越しをして落ち着いた頃に気付いたのですが・・・お隣の家の若いママが、毎日2~3歳の子どもにヒステリックな罵声を浴びせ、物を投げる音等も聴こえてきます。
離職中の私は日中は家で過ごすことが多かったのですが、その罵声を壁越しに聞いているうちに、自分自身の過去と重なり、毎日息苦しくなりました。
お隣さんなので、何度かすれ違うこともありましたが、子どもは小さくてとっても可愛い子です。なんであんな小さくて弱い存在に対して、毎日罵声を浴びせて暴力をふるえるのか・・・私は毎日ヒステリックな母の怒りの琴線に触れぬよう、怯えて生活をしていました。そして、一度怒り出すと止まらない母に対して、泣きながら「ごめんなさい」「許してください」「もうしないですから」と言っても、絶対に許してもらえません。「なんて目してるんだ」「お前の育て方を失敗した」から始まり、過去の過ちを引っ張りだして「あの時もこうだった・・・」「この時もそうだった・・・」と言って、ビンタが飛び、粘着質に叱られ続けるのです。そして、ビンタが痛くて泣くと、「お母さんの手の方が痛いんだ」とまた、叱られるのです。これは時々のことではなく、≪日常≫でした。
自分の生まれ育った環境は普通ではなかったかもしれない・・・大人になり、客観的に過去の自分を見つめなおし、鬱々としました。
私は、自分自身の弱さ、親へふつふつと沸いてくる悶々とする疑問の答えを、次第に書籍に求めるようになりました。
そこでようやく、今の私を形成しているのは、毒親と家庭環境に拠るものだと、気付くことができたのです。
そうして日々の中、突然母から電話がかかってきました。
内容は、「どうやら大学生の末妹に彼氏がいることが机上捜索の結果分かり、現在は2人で旅行に行っているらしいが、何度電話・メールをしても繋がらない。今までも外泊を友人ぐるみで隠したりしたことがあった。学費も出してやってるのに旅行なんて信じられない。上2人(私含め)のことは信頼してきたし裏切りはなかったが、末妹のことが分からない」と言っておいおい泣くのです。
その場では必死で励ましました。電話は愚痴と被害妄想で数時間に及び、離職中とはいえすごく疲れました。
ただ、このことを仕事から帰宅した夫に話したところ、
「妹さんも大学生なんだし、彼氏もできるし旅行も行くでしょ~」という呑気な答えが。
目から鱗。確かにその通り・・・。
思えば母は、彼氏と歩いている私の同級生を徹底的に避難しました。私は、その非難の対象になりたくなくて、母の望むような体裁をとっていました。みじめな学生生活を余技なくされた自分自身を振り返り、何故母の幸せのために私が自我を殺してまで、二度と戻って来ない学生生活を送る必要があったのか?「裏切らなかった?」そうさせて苦しんできたこっちの身にもなってくれよ・・・・!という怒りがふつふつと沸いてきました。
そして、母が涙ながらに家庭のことを相談してくることも許せなくなりました。思えば、今まで、子どもにしなくてよい、気分の悪くなりような「大人の話」を、幼き頃より聞かされてきたことにも気付きました。最近母よりかかってきた職場でのストレスの電話も、友人や夫に相談したり話すべきことではないか。
「私はあんたの親じゃない・・・」
幼き頃より様々なストレスの捌け口となり、そして私が成人して自立すると今度は親代わりに求めてくる、なんて勝手な親なんだ!と怒りがこみあげてきました。
その後私は、自己PRが思いつかぬまま、履歴書づくりに難航しつつ過ごしていましたが、運良く、在職中にお世話になっていた先輩からお誘いがあり、面接らしい面接も受けずに、好条件で再就職をすることができました(つまり、履歴書と自己PRをすっ飛ばせたのです!)。
新しい職場では悩むこともありましたが、前回と同じ失敗は繰り返さまい!と思い、
母の思考傾向が現れそうになれば注意し、自分自身の言動にも注意しました。
勿論、後で失敗したなと思うことも多々ありましたが、働くことは好きですし、成果を認められる場面もあったので、諦めずに頑張って来れました。
3ステップ:子どもの誕生
結婚から4年目、子どもを授かりました。
夫は子どもをずっと欲しがっていましたが、私は正直抵抗がありました。
再就職したばかりというのもありましたし、やはり毒親育ちの私がまともな子育てをできるとは思えなかったのです。
妊娠をしてもいないのに、夫の期待が重く、セラビーの専門家の方に涙ながらに相談しに行ったこともありました。
そこで教わったことは「理想的な家庭を知らないあなたには、友人がいる。今は地域に頼れる相談先も用意されている。自分がいいなと思う子育てをしている人がいたら、どんどんその人に聞いて、真似をしなさい」と言われました。
正直、妊娠もしていない人が、子育てのアドバイスを乞う時点で、今思えば十分病的なのですが、この頃は必死でしたし、今でも、この時にお話しが聞けて良かったと非常に感謝しています。
夫は幸せな家庭で育っているので、私が家族を遠ざけることを少し不思議に思っているし、よく世で言われるように、私の「被害妄想が強いのではないか」という考えも、少なからず持っているようです。ただ、優しい夫なので状況は理解していなくても、
「大丈夫!僕が子どもをしっかり育てられるから笑」と言ってくれたことも、子どもに会ってみたいという自信になりました。
そして、赤ちゃんが産まれてみて分かったこと・・・。出産はどの方に聞いても、本当にそれぞれにストーリーがあり、「皆がみんな一番大変な出産をしているのだな」と思います。
私自身も、管理入院からの促進剤→緊急帝王切開というかたちで、産後は42度を超える発熱と嘔吐もあったりで、皆と同様「大変な出産」でした。
「自分が親になってみて初めて親の気持ちが分かるんだよ」という言葉があり、私はこの言葉を恐れていました。
ところがどうでしょう。小さくて可愛い赤ちゃんを目の前にして、母と同じように
「お腹を痛めて産んでやった」という気持ちには決してなれませんでした。
また、反面教師として、この子の望む進路に進ませてあげたいという気持ちも高まり、夫ともども、互いの給与の6割以上を子どものために積み立てはじめました。
ただし、これは子どもを産むことを勝手に選択した親としての当然の義務であり、見返りを求めるべきこととは決して思えません。
そして、小さくて可愛い赤ちゃんを目の前にしていると、
なぜ親が、可愛いはずの子どもに対して、
・日々延々と暴言と暴力でなじってきたのだろうか
・身体的な欠点を繰り返しあざ笑ってきたのだろうか
・純な子どもに聞かせなくても良い大人の話を聞かせてきたのであろうか
全く理解できなくなっていきました。
両親、特に私の人生の半分以上の期間、毒を盛り続けてきた母とは、距離を置きたいと考えました。
会えば延々と愚痴を聞かされるので疲れる上に、過去のことを思い出すと怒りがわいてきます。そして、可愛い我が子にも余計な事を言い聞かせるのではないかという不安もあるのです。
毒親スペックと、その毒について
毒親にされた数々の仕打ち、しばらく毒だと気付けずに傷心していたけれど、
自分自身が子育てをしていく中で、「私の人生にとって猛毒だった!!!」と気付くことも多々。。。
母娘関係が複雑化しやすいという話はよく聞きますが、やはり母の毒は父のそれよりも猛毒である気がしています。
私にとって、母を毒母として見つめざるを得なくなったのは大きく分けて下記。
毒母のスペックは
【1】自分自身が母(私にとって祖母)より虐待を受けていた
・日常的に肉体的・言葉の暴力を受けていた(らしい)
・兄だけが可愛がられた(らしい)
・思う進路に進ませてもらえなかった(らしい)
・祖母は50代で自殺
【2】自己防衛的で、周囲に対して常に批判的
・自分を非難する人が許せない、自分の考えは絶対
・未だに、当時子どもであった私に言われ自分が傷ついたことを粘着室に言い続ける
・大人(ご近所・子どもの同級生の親)のことを悪く言い続ける
・子どもの同級生のことを悪く言い続ける
・出会ったことのない著名人のことをイメージだけで批判する
【3】信頼できる友人を持たない・夫(私の父)との不仲
・ご近所でも、子どもの同級生の親でも、急に近づいて家に招きあうような親密な仲かと思えば、急に変だと言い出して距離を置きだす
・人生の伴侶であるはずの夫とも不仲で、常に怒声が飛び交い口論が絶えない
・両親の不仲にはお互いに原因があったと思うが、今振り返れば父は家庭での尊厳を保てなくなる程、母のモラルハラスメントがあったと思う
【4】自分は子ども達にとって優良な母だと信じ込んでいる
・自分の子ども達は群を抜いて優秀で、子育てに成功したと思い込んでいる
【5】決めつけが激しく、感情に波がある
・強い先入観があり、実体験のないことへも批判や決めつけが多い
・怒り狂ったかと思えば泣き出したり、感情的になると収集がつかず、またそのことも自分自身では覚えていない
・一度怒り出すと収集がつかず、遡って別の出来ことまで持ち出して延々と叱られる
・怒ると汚い言葉で罵られる
【6】後年になり心理カウンセラー1級資格を取り、社会的にはDV被害や家庭相談を受ける立場
・自分が最大の被害者だと思っているが、自分はそのトラウマを克服したと思い込んでいる
・心理カウンセリングやDVについての知識、カウンセラーとしての立場が、さらに母を「自分は決して加害者ではない」という意識を高めている
そんな毒母にされたことは・・・
【1】母の自己承認欲が全て子どもに
・毎年の誕生日には「産んでくれてありがとう」と言わされる
・お腹を痛めて産んだと何度も言われる
・学校を出してやった、食事を与えてやった、という親として当たり前のことを恩着せがましく言ってくる(時には「誰のお陰で飯食ってると思ってるんだ!」となじられる)
・病院での定期検診結果を大袈裟に連絡してくる(実際は病気でも何でも無く・検診を受ける必要もないと言われているにも関わらず)
【2】子どもをストレス発散の道具に
・怒り出すと収集がつかず、殴る、ぶつ、平手打ちは当たり前で、時にはフライパンで頭を思いきり叩かれたことも
・自分自身の複雑な母子関係(祖母にされた虐待等)を幼少期より聞かされる
・親戚・ご近所・同級生の親の不平不満や悪口を幼少期より聞かされる
・夫(私にとっての父)の悪口を幼少期より聞かされる
・私の成人以降は、自分の職場のストレスや私の兄弟への不満を泣きながらうったえてくる
【3】子どもの尊厳を貶めることで自分が優位に
・私の身体的な欠点を、幼き頃より面白おかしく言われ続けた
・子どもの失敗談を笑い話としてご近所・同級生の親に言いふらす
【4】子どもを思うようにコントロールしたい
・思い通りにならないと怒りながら「どうせお母さんのお前の育て方が悪かった!」といじけて、なじられる
・直ぐに学校の先生に電話を入れて苦情や事前対策をすることが親としての愛情だと思い込んでいる
・思春期にオシャレをさせてもらえなかった
・希望進路への夢はたたれ、結局母の望む大学へ進学
・海外は危険だから行くな、学費を出してもらってる分際で旅行なんてもっての外
・幼き頃より男女交際についての汚いイメージを植え付けられ、大学生になっても交際を禁じられた
文章にしてみると短いですが、私はたったこれだけのことに気付けずに、日々悶々としてきました。
毒親と距離を置きたくなった(大きな気付きがあった)のは、成人してからのある一本の電話、そして、私自身が子どもを授かってからです。
毒親は繰り返す・・・よくそんなことも耳にしますが、色々な気付きがあった中で、
母と同じように、暴力を奮ったり子どもの尊厳を冒したり、進路や恋愛を邪魔したいとは、可愛い我が子を見て、そうはなりません。
それでも、やはり、あるんです。。。夫に言われてハっとすること。
自分自身の言葉の言い回しが母にそっくりでゾっとすることが・・・。
「まだ完璧に解毒できているわけではない」
これが私の現状ではありますが、これからは幸せな人生を歩むために・・・
気付けたらそこから変えていけばいい、そう思って、ゆるく、成長していきたいと思います。。
毒親からの解放
親元を離れての一人暮らし、結婚、退職、再就職、出産を機に、
家族以外の人と深い交流をする中で、また、自分自身を見つめなおす中で、
どこか私の家族は変かもしれない、親は変だ、と思う気持ちが強くなりました。
それでも、世間一般の「親には感謝を」「どこの家族にも色々ある」という呪縛から離れられず、しばらくは親孝行も頑張ってきました。
ただ、自分自身の人生を幸せに送るためには、自分自身、そして家族環境と向き合うことからは避けられず、悩み苦しんできました。
そして様々な書籍を読み進めていく中で、自分の両親は『毒親』であったこと、世の中には両親から様々な毒を盛られ苦しんでいる人がたくさんいること、解毒をして幸せに生きる道を選択できた人がいることを知り、
私も今は両親とは距離を置き、30代半ばにして、自分の力で幸せな人生を歩むことを決意しました。
第二子の出産を控え、改めて自分の気持ちを整理したいと思い、とめどない文章ではありますがブログに綴っていきたいと思います。