時間は返って来ない ~進路~

毒親に浸食された時間は二度と返って来ません。

色々と精神的・肉体的に辛い思い出はありましたが、

その中でも習い事を制限され、進路を否定され、結局親の思う道へ進んだことに関しては、

未だに怒りが湧き出てくることすらあります。

 

子どもには希望の進路を歩ませてあげたい!

子どもが興味を持ったことを伸ばせるような環境にしてあげたい!

 

ネットでヒットする適当な子育てコラムでも、よく言われているようなことですが、

でもこれって、すごく重要なことですよね。

私、先ずは行動を・・・と思い、子どものためにコツコツ貯蓄してきました。お陰様で、高校・大学卒業までは希望校が私立でもなんとかなりそうなところまで無事貯蓄できました。

(留学したい!となることも加味すると、まだまだ備えるべきとは思いますが・・・)

 

私自信は、習い事を強制されました。

母はピアノを弾くことができないのがコンプレックスだったらしく、子ども達にピアノを強制的に習わせました。その上、家庭の生活レベルにも子どもの実力にも見合わないような、大きなグランドピアノを購入しました。

私はピアノもピアノの練習も大嫌いでした。練習をろくにしないものですから当然上達することもなく、真面目に練習してみるみる上達していく姉と比較されました。

時には母に激怒されながら練習しましたが、その度に「月謝がもったいない!」と怒鳴られました。

月謝はもったいないままでしたが、母の見栄と母のコンプレックスの解消のために、私は高校に入るくらいまでだらだらとピアノを続けました。

(私は、本当は絵を描くのが大好きだったのですが・・・。)

 

母は学校の父母会や同級生の親等には、「うちの子達には家庭学習なんてさせません。学校で覚えてくればいいことですから」と得意気に語っていましたが、

実際にはテストで悪い点数を取って帰ると激昂されました。

姉は所謂優等生タイプでしたが、私は赤点だらけの成績でしたから、理解ができていなと母にフライパンで殴られたりもしました。

小学校高学年~中学生くらいになると私の成績はそこそこ、姉は地域で最も偏差値の高い高校に合格しましたが、私は地元の冴えない進学校に入学しました。

 

高校に入ると、数理系の授業が楽しく、高校の全体的なレベルが低かったこともあり、私は成績トップに躍り出ました。数理系の大学への進学にも興味が湧いてきました。

ただ、受験の足音が近付いてくると、自分が本当にやりたいのは「絵を描くことだ」と思い、美大への進路変更を希望し始めました。これしかない!と思い母に伝えると・・・

「そうやって勉強から逃げるな!」と怒り狂われました。。。

(母は決してレベルの高い大学は出ていませんでしたが、それを「親にどんどん志望校レベルを落とされた」せいにしていて、それを自分の子どもにはさせたくないとも言っていましたが・・)

母は、姉が国立大学に入ったことを誇りに思っていて、私にも同じ大学に入ることを暗に指し示していました。

また、美大に合格するためには予備校に通う必要があったことと、自宅から通える範囲内に美大が無かったことから、受験や学生生活を送るために私に支出することは、家計的にも厳しかったのだと思います。

 

ただ、おかしな話で、その後姉が国家資格を取りたいと言い出した際には、何年間も予備校にも通わせてるんですよね・・(10年近く受験するも結局不合格でしたが)。

結局、毒親の見栄や満足を満たすための支出には協力的ということです。

また、後で思ったことですが、子どもを希望の進路にすすめさせられない程に家計がひっ迫しているならば、グランドピアノを買わず、無駄な月謝を支払わず、その分を貯蓄しておいて欲しかった・・・そう思うのです。

 

高校生の時、私には美大に行くという選択がどうすれば叶うのか、相談できる人も情報も術もなく、泣く泣く諦めました。

その後、勉強へのやる気も無くなり、当然理数系学科に入りたいという希望も無くなり、母の希望する国立大学の何の興味も無い学部に入りました。

母は鼻高々でした。時には昔の話を蒸し返して「絵なんていつだっけ描けるけど、勉強は今しか集中してできないんだから」「本当に絵が描きたかったら社会人入学すればいい」と言いました。

確かに、絵はいつでも描けるのかもしれない・・・その頃はそう思っていました。

 

私は大学卒業後、東証一部上場の企業で、比較的デザインにも近い仕事に就くことができました。

母は、娘が有名企業に勤めていることに鼻高々でしたが、一方で私は今まで自分が出会って来なかった美大出身者に出会うことが多くなり、美大への憧れや後悔が強くなっていきました。

美大出身者の就職は難しいと卒業生は言っていました。私が美大に通っていたら、今の職場には居なかったかもしれません。

ただ、「学生時代にしか経験できない人達に出会い、その時期に創作活動をすること」こそ美大に行く意義だったのであり、「絵はいつでも描ける」こととは別物。そうか、私の青春時代は二度と戻って来ないんだ・・・そう実感し、涙が止まりませんでした。

 

そんなある日、母から誕生日プレゼントが届き、中を開けると、水彩絵の具のセットでした。そこには手紙が添えられていて、「あんたには、ずっと絵を描いていて欲しいから」とありました。

は・・・???!

散々進路を否定しておいて、今更こやつは何を言ってくるのだろう。。。

私には、母が自分の手紙や、その行動に酔っているようにしか見えませんでした。

その後も、「最近絵は描いてるの?」とか「あんたには独自のセンスがあるから続けてね」とか、余計なお世話を焼いてきました。

社会人になってからは油彩の教室に通ったりしたこともありましたが、

母からの絵に関する立て続けの連絡が続いた後、私は一切絵を描かなくなりました。「一生描くこと」が母の指し示すレールを歩くように思えて、嫌になったのです。

最後に「最近絵は描いているの?」の問いかけには「別に、才能も無いし無駄だから描いてないよ」と素っ気なく答えた記憶があります。

 

もしも本当に才能があり、やりたいことだったら、母に何を言われようと、未だに絵を描くことを続けていたのかもしれません。もしも美大に通っていても、才能が無いことに気付き、絵を描くことを止めていたのかもしれません。

それでも強く悔しく思うのは、「美大に行けなかったこと」であり、それと同時に、美大に行っていたら開けていた道があったかもしれないということなのです。これは同時に、もしも美大に行っていたら、自分の進路選択が誤りであったと思うことはあったとしても、親のせいにすることは無かったでしょう。

 

そうじゃなかったら今頃どうなっていたか?を想像することは全く以て非現実です。人生1回きり、やり直しはききません。

進路は本人の希望で進むべきということが、本当に大事です。